法話紹介

一味法話

「四門出遊」-お釈迦さまの出家-

内藤昭文
本願寺派司教・龍谷大学講師

仏教の話をする場合「四諦八正道」や「縁起」の話にふれます。
それは、お釈迦さまの開かれた悟りの内容が「十二因縁」であると言われたりすることを考えると、妥当なことかもしれません。

また、仏教とは悟りを開かれた後に説かれた内容で、「仏の説いた教え」あるいは「仏に成る教え」と語義解釈されますから、その意味でも「縁起」などの話をすることは当然なことといえます。
しかし、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、お釈迦さま自身の問いに対する答えを見出したことです。つまり、お釈迦さまには道を求めて出家した動機があります。

それが「四門出遊」という伝承です。『五分律』などにある、城の東門で老人、南門で病人、西門で死人と出会い、北門で沙門という求道者を見たという伝承です。老・病・死などの人間の苦しみを見て深く考えたお釈迦さまの姿は、色々な形で伝えられています。それが生老病死の四苦としても説かれています。
「四門出遊」の伝承には「生」がありませんが、それはお釈迦さまがすでに生まれているからです。今、不思議な因縁で生命あるものとして生まれた私にとって、老・病・死の苦悩があります。
生死(しょうじ)」という言葉がありますが、これは「生老病死」のことです。生まれ、老い(歳の重ね)、病み、死ぬ、それがいのちある者にとって「生きる」ということです。いのちある者は、老・病・死をさけて生きることはできないのです。

今日では「生きる」とは「死なない」ことと考えている人が多いのではないでしょうか。
それは「死」を否定した「生」にとらわれている姿です。そして、それは若さや健康、あるいはいのちの(おご)りでしかありません。そこに苦悩が生じます。

お釈迦さまにもその苦悩があったのです。それが出家の動機であり、求道の「問い」なのです。その「問い」を解釈された「答え」が、お釈迦さまの説かれた教えです。仏法に聞き、仏教に学ぶ場合、お釈迦さまが「生死(しょうじ)を越える道」を求めた問いを忘れてしまっては、その教えは私に響いてきにくいだろうと思います。「四門出遊」の主人公は「仏伝」としてはお釈迦さまなのですが、仏教徒として教えを聞く場合には、その生死(しょうじ)いづべき道」を求めて聞く「私」なのです。

【No.684〈2001年 夏の号〉】

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