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巻頭言

專精 專精院鮮妙筆

一味子

「唯当時ハ、安心ノコトヲ色々弁ズルバカリニテ 他力ノ信心ヲウルコトハ ソコノケニナリテア リ 実ニ慨歎スベキコトナリ」(香月院深励「浄土和讃己未記」)

「このごろ信心のことをあれこれ論じる人は多いけれども、自分が信心を得るということはい ったいどうなってしまったのであろうか。まことに嘆かわしいことである」というほどの意味である。
先哲方の講録は決して無味乾燥なものでなく、随所にその味わいが散りばめられていて、身の引き締められるような思いをさせられることが多い。
宗祖の言われる、「もっぱらこのみ」て「専精」に我々が学ぶ目的も、ただこのことにつきている。
己未(きび)「つちのとひつじ」は寛政十一年、西暦一七九九年、今からほぼ二百年前である。右の言葉に恥じない宗門人が、今、はたして何人いるのであろうか。

【No.670〈1998年 冬の号〉】

蓮如上人御生涯の記(1)

母との別離の日が「命日」だった

梯實圓
本願寺派勧学・行信教校校長

カノ六歳ノ寿像ヲ絵師ノ侍シニカカセ取テ能似タルヲ表保衣等マデ悉クコシラエ玉テ取持テ… 『拾塵記』

東山を背景に、大谷本願寺の屋根が、師走の夕空に凍りついたように黒々とそびえている。
そのしずまりかえった庫裏の横手の両開きの板戸をおしあけて、一人のうら若い女性が、お 供もなく、しのびやかに出ていった。当座の着替えでもくるんでいるのか、小さな包みを背におい、一見して軸物とわかる細長い包みを両手でしっかりと胸に抱きしめている。
泣きはらした眼に、一ぱい涙を浮かべ、妻戸を出たところでちょっと立ちどまったが、まるで 未練をふりはらうかのように足早に夕闇のなかへ消えていった。
それが六歳の布袋(蓮如上人)が見た母の最後の姿であった。応永二十七年(一四二〇)十二月二十八日の夕暮れのできごとである。
母の消えた座敷で、歯をくいしばって泣きじゃくる布袋を、若い父、存如もまた涙をうかべながら黙って見守っている。どうしようもない悲しみにつつまれた父と子には、京の師走の底冷えも感じられないようだった。父の口からは悲しみをはきだすかのようにときおり念仏が流れてでる。布袋の耳の奥には、母が残した言葉がひびきつづけていた。

我ハコレ西国ノ者也 爰ニアルベキ身ニ非ズ(『拾塵記』)

しかしなぜ母が自分を捨てて去らねばならないのか、六歳の布袋に理解のできるわけはなかった。
ともあれ六歳のときのこの母との別離の悲哀は幼児の心奥に焼きつき、その人格形成の原風景となったことだけはたしかである。わが身に引き受けるしかないこうした非条理な悲哀を背負わされた幼児が、たどる人生は厳しかった。しかし、やがてそれを仏祖のみ教えに導かれて乗り超えたとき、希代の宗教者、蓮如上人として脱皮していくのであった。

……<以下省略>

【No.654〈1994年 冬の号〉より連載、全31回】

花まつり法話

お釈迦さまの誕生日

若林眞人
本願寺派輔教・布教使

「きょうは花まつりとは言え、まだ桜はちらほら咲きですねぇ……」「んっ?」車中のラジオに引きつけられる。どうやらアナウンサーさんは、四月八日を「桜の花祭り」とお考えであったらしい。
四月八日は何の日?入学式かな?いいえ、お釈迦さまの「お誕生の日」なのです。その時、諸々の天人は花びらと香湯をふりそそいだ。それで「花まつり」「潅佛会」ともいう。もっとも二千五百年も昔のこと、仏教国でも(こよみ)の歴史や伝承が異なることもあって、慣習はさまざまに違っているようです。
キリストさまのお誕生日は、ケーキにプレゼントと、ずいぶんにぎやかです。お菓子屋さんもぜひ「花まつり蓮華パイ」〔なまえがもう一つかなぁ〕など、いかがでしょうか。
五月二十一日は、親鸞さまの「お誕生日」(むかしの暦日のままだと、四月一日なのですが)この日を「降誕会」と呼び親しんでおります。本願寺はじめ、各地の寺院では、およろこびの法会が開かれます。
ところで、仏教徒の先人は「誕生」という言葉でなく「降誕」と語り伝えてこられました。単なる人間の誕生ではなかったのですね。
お釈迦さまがお生まれになると、七歩あゆまれて《天上天下唯我独尊》といわれたと、それを大まじめに伝えてこられたのです。そこには「ようこそこの私一人のために、この娑婆世界にお出まし下さいましたね」という意味が込められています。
私たちは、お釈迦さまよりも、のちの時代に命を受けられてよかったですね。なぜなら、「お三部経」の経説に聞きふれることができたのですから。親鸞さまよりも、のちの時代に生まれることができてよかったですね。なぜなら、自ら阿弥陀さまのお誓いを身にかけて、たくさんのご法語をこの私に書き残してくださったのですから。
そうして、いまここに生きることができてよかったですね。ここは、お念仏の聞こえる世界、お念仏の申される世界です。私の耳に聞こえる程に、浄土真宗のご法義がはんじょうしていてくださった。これを伝えの残したいですね。その方法はただ一つ、私自身が阿弥陀さまの仰せに聞きふれること、息が出入りする、いまここが、阿弥陀さまの活動の現場なのですから。
念仏者としてのあらたな誕生。諸仏がたは、きっとよろこんでくださいます。「かならず仏となる命。ようこそこの煩いの娑婆にお生まれなさったね。ようこそ難信のお念仏の身となられましたね」と、私の《降誕》を。

【No.655〈1994年 春の号〉】

目で見て味わう浄土真宗

お名号

天岸浄圓
本願寺派輔教・布教使・行信教校学監

浄土真宗のお仏壇のご本尊は、中央に阿弥陀如来のお姿を安置し、左右に二幅のお軸がかけられます。地方によって形式に相違がありますが、阿弥陀さまに向かって右側に親鸞聖人、左側に蓮如上人のお軸をおかけすることが多いようです。このお姿のお軸を「御影」とよんでいます。ところでこれとは別に、阿弥陀さまの右側に「帰命尽十方無碍光如来」、左側に「南無不可思議光如来」の十字・九字の尊号(名号)をおかけするところもあります。とくに京阪神地方に多く見られる形式のようです。
阿弥陀さまと親鸞聖人・蓮如上人の御影をおかけすることは、阿弥陀さまのみ教えをわたしたちにお伝えくださった、親鸞聖人や蓮如上人のご恩を偲ぶためにおかけしています。
これに対して、尊号のお軸をおかけするのは、中央の阿弥陀さまのおこころを文字を通して味わわさせていただくためであります。
このように仏さまを「名」をもってあらわすことは、親鸞聖人がはじめてなさったことであります。

……<中略>……

「南無阿弥陀仏」の六字の下に「蓮台」(仏さまの立たれている蓮の花の台)が描かれています。これには大変に深いおもいがこめられています。それは、阿弥陀さまとは「南無阿弥陀仏」という仏さまであられることをあらわそうとしておられるのです。

……<中略>……

阿弥陀さまとは私の身にも心にもとどいて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の念仏の声となってくださっている仏さまだと教えておられるのです。

……<以下省略>

【No.656〈1994年 夏の号〉】

一味法話(浅井成海)

これが娑婆です

浅井成海
龍谷大学名誉教授

私は、福井県の出身です。福井県の山の中の小さなお寺の、住職をしております。もう七、八年になりましょうか。私のお寺の、ある檀家のおばあさんが亡くなられました。そのおばあさんは、六人のお子さんを育てられました。途中、長男を戦争で亡くし、ご主人に早く死に別れて、その後、五人の子供を立派に育てて、八十三歳でなくなられたそうです。
その、おばあさんについての思い出を、話させていただきます。
お通夜のときでした。私がおつとめを終えたあと、参詣されたかたがたを前にして、次男さんが、このように話されました。
「亡くなる前の一週間、母は意識がありませんでした。私は仕事をもっておりますので、ずっとつき っきりで看病することはできなかったのですが、母の意識がもうろうとなってから一週間ほどは、そばにいることができました。その間のことです。もう四十年も前に亡くなった長男と私を間違えて、母は私の兄の名前を呼ぶのです。”帰ってきたか、帰ってきたか”と。何度もそういうことがありました。最近、母は、死んだ兄のことについて、ほとんどといっていいほ ど口にしませんでした。しかし、母は心の奥底では、いつも兄のことを想っていたのだということが、よくわかりました。」
涙のうちの、あいさつでした。
じつは、そのおばあさんは一年あまり療養生活をつづけて入退院をくりかえし、自宅と病院とを行ったりきたりされておられたのですが、その一年の間に、もうひとりの娘さんを亡くされたのです。娘さんは看病疲れで、頭痛が激しくなったのでひとまず家に帰り、しばらくして亡くなられたのです。
おばあさんは「どうしてこないのか、どうしてこないのか」と、家族のかたにたずねます。隠し通すことができなくなって、じつは三週間前にこんなことがあって、亡くなってしまった。もう葬式もすませたと知らせました。
私が、おばあさんのお見舞いに出かけたのは、そういう状況の中でした。
どのように、お見舞いの言葉をいえばいいか……。病状がどんどん進んで、ご本人もうすうす厳しい状態を感じておられるし、長男を戦争で失い、ご主人に先立たれ、苦労に苦労をかさねてこられた。そして、自分の看病疲れで、長女までも何週間か前に亡くしておられる。そういう人生の悲しさ、厳しさをまのあたりにしておられるかたに、どのようにあいさつすればいいのか、私は言葉を失っていました。
そのときでした、おばあさんのほうからさきに、「これが娑婆です。これが娑婆です」と、私に声をかけて下さったのです。
「娑婆」というのは、迷いの世界です。思うようにならない、苦しみの世界という意味です。この娑婆に生きる以上、私たちはさまざまなことに出会って、生きていかねばなりません。喜びもあり、悲しみもあり、それらをのりこえて生きていくことが人生なのです—-そういう意味を込めての言葉でした。私には何も、かえす言葉はありませんでした。

……<以下省略>

【No.659〈1995年 春の号〉】

一味法話(瓜生津隆真)

仏法不思議ということ

瓜生津隆真
文学博士・京都女子大学名誉教授

木下まささん、近江湖東三山の一つ西明寺のある池寺(犬上郡甲良町)に出た一妙好人である。
昭和六十年一月二十五日、九十四歳で往生をとげられた。八十八歳のとき、まささんは、念仏の「よろこび」を次のように書きしるしている。

をやさまのおネんぶつが
私のおネんぶつ
私のおネんぶつが
をやさまのおネんぶつ
ふしぎもだんだん
ふしぎだな   この
ふしぎをまた
ふしぎときかして
もらえるのがまた
ふしぎだな   この  とうとさが
わからないで
ふしぎとしかいえないで
ありがたいのだ    あとは
またじごくゆき     ありがたいな

まささんの手次ぎの寺は池寺の円福寺。住職の藤辺行静師にかねて依頼していたところ、昨年八月十六日午後、わざわざ拙寺においでになり、届けてくださったまささんの筆あとの一節である。
行静師は翌十七日突然として往生をとげられ、人生無常を身にしみて感じる中に、このまささんの筆あとを何度もよんだのであった。
『高僧和讃』には、「いつつの不思議をとくなかに仏法不思議にしくぞなき」と讃嘆され、「仏法不思議といふことは弥陀の弘誓になづけたり」すなわち誓願(本願)の不思議をたたえられている。われわれのはからいでは到底知ることのできないので「誓願不思議」と仰がれるのである。
素朴な表現で、まささんはこの不思議を見事にいいつくしている。「ふしぎもだんだん」とは、不思議もいろいろある、ということであるが、ここに、不思議の中の不思議とは弥陀の弘誓をおいて他にはない、ということが意味されているのである。
「ふしぎをまたふしぎときかしてもらえるのがまたふしぎ」と、まささんはよろこぶ。この仏法讃嘆にはただただ驚嘆のほかはない。まさしくまささんに、仏智不思議がはたらいているのである。
「あとはまたじごくゆきありがたいな」と結ばれたよろこびこそ、妙好人の面目躍如たるものがある。「あとはまた」とは、念仏の不思議のほかは地獄行きのみ、という深い内省を示しているといえよう。
この「地獄行き」は、機の深信である。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といわれた親鸞聖人のおことばが浮かんでくる。これは仏智不思議によってしらしめられた「この身」の姿にほかならない。
念仏の教えによって弥陀の本願にあい、自己の「地獄行き」の姿を知るのであるから、この自覚がまた不思議である。まささんは「ありがたいな」とこれをよろこばれるが、それが仏智不思議なのである。

……<以下省略>

【No.661〈1995年 秋の号〉】

仏教Q&A

どう違う中国と日本の”長さ”

相馬一意
本願寺派司教・龍谷大学教授

中国の長さの単位は、日本のものと大分違っていることを聞きました。漢文のお聖教を拝読するときなどに、これに注意する必要はありませんか。

そうですね。長さの単位だけでなく、いろんな単位が日本とは異なっています。それなのに、同一の漢字で表現されますから、当然のこと、それを念頭において理解することが大切です。
「億」という数字は十万や百万を意味しますが、知らないと、やっぱり皆さん誤解しますよネ。長さで大きな相違のあるのは、「里」であります。中国では、時代によって多少変化しますが、四〇〇mから五〇〇mの間です。したがって、一里=四キロで換算しますと大きく相違します。「由旬」はインドの単位で、およそ十キロm前後の長さ。これを三十里とか四十里とかにしますが、今の日本のように、四を掛けて、一六〇キロmとしてはなりません。
また「歩」というのがあります。そうです、有名な二河白道の譬えにでてきます。「二河各ひろさ百歩、各深くして底無し」とか「中間に一の白道有り。・・・・・・此の道東の岸より西の岸に至るに、亦長さ百歩」とあるものです。日本のつもりで、一歩六〇センチmとしますと、河幅は六〇mですね。皆さん、これでよろしいか。
「決して死ぬことはないから進めよ」、あるいは「必ず護るから畏れずに来たれ」と叫ぶに値する距離として

……<以下省略>

【No.663〈1996年 春の号〉】

目で見て味わう浄土真宗

お寺の本堂

天岸浄圓
本願寺派輔教・布教使

お参りは外からだった

今日では、お寺といえば、本堂に入ってお参りすることが当然のように思われていますが、古くは、本堂に入ってお参りをすることはありませんでした。奈良時代に建てられた寺院、たとえば奈良の東大寺や法隆寺、薬師寺などの場合です。

……<中略>……

本来仏さまにお参りするところは堂内ではなく、お堂の外の正面の灯籠の前からだったのです。東大寺では、大法要の折りなどは、あの八角の大灯籠の前に舞台をしつらえておつとめがなされます。

……<中略>……

聞法のための道場

鎌倉時代。法然聖人や親鸞聖人の頃になって、今日の真宗寺院の原型が生まれてきます。
仏教が思想的に変化し、それにともなってお寺のあり方も変わっていったのです。

……<中略>……

一人ひとりの人間が人生の悩みを超えるために、仏さまの教えを聴聞する聞法の道場へと変化していったのです。
そこでは、人間が仏さまのお堂の中に入ってお参りし、教えを聴聞します。いいかえれば、これまで人間から遠ざけられておられた仏さまが、苦しむ人間に近づいてくださったといえましょう。
そこでひとりでも多くの人が、本堂へお参りをし、仏さまの教えが聞けるように、聴聞の場である「外陣」はより広く設計されました。しかも参詣人の足の痛さを考えて、当時としては高価な畳を敷きつめました。最近では座蒲団を敷いて・・・・・・イスまで配慮されてあります。聴聞を第一義に考えてのことです。

……<以下省略>

【No.665〈1996年 秋の号〉】

浄土真宗のお聖教

『御文章』「聖人一流章」

中西昌弘
本願寺派輔教・布教使

本願寺再興の原動力

私たちがもっとも身近に感じさせていただくお聖教は『正信偈和讃』と『御文章』ではないでしょうか。日常、勤行の後に「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもって本をせられ候ふ・・・・・・」
と拝読されると、一同が頭をたれてお聴聞させていただくのが浄土真宗の今日に至るまでの伝統となっています。

……<中略>……

真宗の正意をあきらかにする

若い頃から徹底的に親鸞聖人の書物をはじめとする真宗のお聖教を読み破られたきびしい勉強を通して『御文章』は浄土真宗のみ教えが誰にでも正確につたわるようにとのお心配りから手紙文で極めて平易にわかりやすく、そしてくり返しくり返し要点を強調して説かれています。しかも時には俗語や俗諺をまじえながら、あくまでもやさしく行き届いた親切なご教化ぶりで書かれていますが。大切なところでは妥協を許さぬきびしさがうかがえます。

……<中略>……

『御文章』は徹底して「信心正因・称名報恩」という浄土真宗のご法義で貫かれています。

【No.667〈1997年 春の号〉※No.661〈1995年 秋の号〉より連載、全9回】

よろこびをかたちに

若林眞人
本願寺派輔教・布教使

報恩講の前日でした。本堂の佛華を生けていると、「手伝おうか」と中学三年生の長男が声をかけます。「うん、もってくれるか」と返事をして、芯を支えてもらう。私が菊の花にハサミを入れると、「痛いやろうな」と言う。「うん?何が?」「花は痛いやろうな」「痛いことはないよ」と言ってチョキンと切る。「痛いで。そらぁ。体を切られてるんやから」とまた言うのです。
そうかも知れない、と思いつつ、ひとつのご法話を思い出しました。あるお寺の幼稚園でのこと。子ども達の育てた花を、園長先生が「ほとけさまにお供えをしようね」と切ろうとされた時、「お花がかわいそう」と園児がいうのです。先生はその花を切ることができずに植木鉢のままお供えされた。花のいのちと向きあった、子どもの優しさが輝いているお話でした。

……<中略>……

「花は飾ってあげてこそよろこぶんよ」と理由づけをしてみても、それは私の傲慢さでしかないでしょう。花は仏さまを飾る道具でもないはずです。その花を切って仏さまにお供えをするのはなぜなんでしょう。
観音菩薩は左手に華瓶を持ち、龍樹菩薩はつぼみの蓮華一輪を両の手で持っておられる。花それ自身の優しさが、菩薩の慈悲のありさまを告げてくださるのでしょう。仏花をお供えするということは、花のいのちをいただいて仏さまのお慈悲を仰がせていただく、そのことに尽きるのではないのでしょうか。

……<中略>……

いつとはなしにご門徒方もお花をお荘厳にと申し出てくださいます。それはご門徒方のよろこびでもあり、住職としてのよろこびでもあります。同時に何かしら勿体無いいのちのお荘厳と仰ぐばかりなのです。

【No.670〈1998年 冬の号〉より連載、全6回】

一味法話(石田慶和)

本願まこと

石田慶和
文学博士・龍谷大学名誉教授・行信教校講師

近ごろ、ふと思いだします。昔、海軍の学校にいたころ「五省」ということがありました。その初めは「至誠に悖るなかりしか」という言葉でした。
「言行に恥ずるなかりしか。気力に欠くるなかりしか。努力に憾みなかりしか。不精に亘るなかりしか」と続くのですが、学生たちは毎日、それを繰り返してとなえていたように思います。

日本人は「まこと」が大好きです。中村雄二郎という哲学者がそう言ってます。日本人の最高の徳目は「まこと」である、と。父母・兄弟・友人など、だれに対しても「まこと」を尽くすことができたならば、たとえ法律を破ってもかまわないと思っている、と。軍隊の学校で、学生たちが第一に「至誠に悖るなかりしか」と言って反省していたのは、そうした日本人の伝統にしたがっていたのでしょう。

いまでも、若いお嬢さんたちの結婚相手の第一条件は「誠実な人」ということのようです。
うそをつく、うらぎる、だます、というようなことは、人間として最も恥ずべきことと見なされます。そういう人を、人生の伴侶にしたくないというのでしょう。
私たちは、日常、いつも自分を省みて、誠実であったかどうかを反省しなければならないということになります。

そういう日本人一般の考え方に対して、全く異なったことをおっしゃったのが親鸞聖人ではなかったのでしょうか。聖人も「まこと」をもとめてやまなかった方ですが、浄土の教えに遇われて、人間には「まこと」がないことにきづかれたのです。

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

という「悲歎述懐讃」には、「まこと」がわが身にはないことを痛切にうたっていらっしゃいます。聖人の目には、私たちの本当のすがたにとどいているのです。
戦争が終わって、初めて親鸞聖人の教えに耳を傾けたとき、私の心を深く打ったのは、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

という『歎異抄』の言葉でした。それまで戦争には勝つのだと教えられてきて、それが全くうそいつわりで、とことん負けていたということが明らかになりました。また国中どこもかも戦災で荒廃していましたが、それは、「火宅無常の世界」にほかなりませんでした。たよるべきなにものもなく、信ずべき何者もないというのが、当時のありさまでした。
そういう外の世界と対応して、自分自身の心の中も、偽りにみちたもの、まさに「煩悩具足の凡夫」だということも、だんだん明らかになってきました。「まこと」は外にも内にもないということがはっきりしてきたとき、はいじめて「ただ念仏のみぞまこと」という言葉が私に迫ってきたのです。
「まこと」のひとかけらもない私に、仏さまから差し向けられた「まこと」、それが本願の名号です。

……<中略>……

五十年以上もたって、一体人間とは何なんだろうと考えます。「火宅無常の世界・煩悩具足の凡夫」に「まこと」がないことないことは、今も昔も少しも変わってはいません。そして、本願の名号だけが「まこと」であることも。

【No.681〈2000年 秋の号〉】

一味法話(内藤昭文)

「四門出遊」-お釈迦さまの出家-

内藤昭文
本願寺派司教・龍谷大学講師

仏教の話をする場合「四諦八正道」や「縁起」の話にふれます。
それは、お釈迦さまの開かれた悟りの内容が「十二因縁」であると言われたりすることを考えると、妥当なことかもしれません。

また、仏教とは悟りを開かれた後に説かれた内容で、「仏の説いた教え」あるいは「仏に成る教え」と語義解釈されますから、その意味でも「縁起」などの話をすることは当然なことといえます。
しかし、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、お釈迦さま自身の問いに対する答えを見出したことです。つまり、お釈迦さまには道を求めて出家した動機があります。

それが「四門出遊」という伝承です。『五分律』などにある、城の東門で老人、南門で病人、西門で死人と出会い、北門で沙門という求道者を見たという伝承です。老・病・死などの人間の苦しみを見て深く考えたお釈迦さまの姿は、色々な形で伝えられています。それが生老病死の四苦としても説かれています。
「四門出遊」の伝承には「生」がありませんが、それはお釈迦さまがすでに生まれているからです。今、不思議な因縁で生命あるものとして生まれた私にとって、老・病・死の苦悩があります。
生死(しょうじ)」という言葉がありますが、これは「生老病死」のことです。生まれ、老い(歳の重ね)、病み、死ぬ、それがいのちある者にとって「生きる」ということです。いのちある者は、老・病・死をさけて生きることはできないのです。

今日では「生きる」とは「死なない」ことと考えている人が多いのではないでしょうか。
それは「死」を否定した「生」にとらわれている姿です。そして、それは若さや健康、あるいはいのちの(おご)りでしかありません。そこに苦悩が生じます。

お釈迦さまにもその苦悩があったのです。それが出家の動機であり、求道の「問い」なのです。その「問い」を解釈された「答え」が、お釈迦さまの説かれた教えです。仏法に聞き、仏教に学ぶ場合、お釈迦さまが「生死(しょうじ)を越える道」を求めた問いを忘れてしまっては、その教えは私に響いてきにくいだろうと思います。「四門出遊」の主人公は「仏伝」としてはお釈迦さまなのですが、仏教徒として教えを聞く場合には、その生死(しょうじ)いづべき道」を求めて聞く「私」なのです。

【No.684〈2001年 夏の号〉】

一味法話(中西智海)

悠久の「いのち」へ

中西智海
本願寺派勧学・相愛大学名誉教授

今、遇うことを得たよろこび

人はもし、まったくめざめの縁もなく宗教的な感性もめぐまれなかったら、一年間どのような言葉を口にして過ごしてしまうのかと、新しい年を目の前にして、ふと思ったことであります。それについて、次のような言葉を想い出しました。

夏になると 冬がよいといい
冬になると 夏がよいといい
狭い家に住めば 広い家に住む人がうらやましいといい
広い家に住めば こぢんまりとしたとした狭い家がよいという
独身の頃には早く結婚したいといい
結婚すると やはり独身時代が気楽だったという
それじゃ どこにも幸福はあるまい
(日々の糧)

この普通一般の言葉のどこに問題があるのでしょうか。
それは、この言葉には「今」の「自身」をみつめ、「今」の「自身」をいただくという発想がないということです。もう一点は、反対のものと比べて、自分が満足したいという考えです。
いかがでしょうか。夏になれば冬、冬になれば夏、広い家に住めばご機嫌がよいのかといえば掃除がめんどうで狭い家がよい……。
反対のものがよく見え、今、手に入らないものが、うらやましくなる、というのであります。
ところで、親鸞聖人は「いつ」「何」をよろこばれたのでありましょうか。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり………ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
(『教行証文類』〈註釈版頁〉)

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
(『高僧和讃』〈註釈版頁〉)

と述懐されております。

……<中略>……

この聖人の世界には、過ぎ去った時間への執われである後悔はありえません。また、夢、まぼろしの未来だけへの希望的観測という心境でもありません。過去をおもい、未来をひらく「今」をいただき、すでに遇いえたことの慶びを告げておられるのであります。

【No.686〈2002年 冬の号〉】

一味法話(高田慈昭)

無限への道

高田慈昭
本願寺派輔教・布教使・行信教校講師

知る世界と知らされる世界

人間の知識はすばらしく進歩しつづけていますが、根本的にいって、自分はどこから生まれてきたのか、死んでどこへいくのか、わかりません。生のはじまりも死の帰する世界も人間の知識ではすこしもわかっていないのです。
ノーベル物理学賞を日本で最初にもらった湯川秀樹さんが「知る世界と知らされる世界」ということを本にかいています。科学は知る世界であり、宗教は知らされる世界だと、つまり、科学は人間の頭で考え実証して知る世界です
しかし、宗教は人間の頭で知る世界ではなく、向うから大いなるものによって知らされる世界であるといわれています。
なるほど、知る世界の知識ではなく、知らされて知る世界とは味わいぶかいことといわねばなりません。知る世界は事実の世界であり、知らされる世界は真実の世界といえるでしょう。
実際、親の愛情とか、ご恩というものは知識でわかるものでなく、向うのはたらきによって知らされるものでしょう。
終戦直後、私はある日、父と口論して寺を出て、家出のまねごとをしたことがあります。友人や学生寮を転々として一週間ほどさまよいました。当時は食糧難で食べるものがないので空腹には勝てません。根負けしてわが家へこっそり帰りました。幸い父も母も留守中でしたが、姉がでてきて叱られました。
「とにかく腹がへって昨日から何も食べてない。何かほしい」といいますと「そんなことと思っていたわ。この極道息子」と台所へつれてゆき、「そこの膳棚の中にあんたの食べるものがおいてあるから上がりなさい」というものですから、食器棚の中をみると、一人分の主食らしきものと副食らしきものが茶碗や皿にいれてありました「これ僕の」「そうよ、あんたが家を出てからお母さんが心配して、今ごろどうしているか。きっとおなかすかしていることだろうといって、毎日毎食あんたの食べるものをのこしてあったのよ、お母さん自分の食べ物をけずってあんたがいつ帰ってきても、すぐ食べられるように残してあったのよ。」
姉の言葉を聞いて胸があつくなり、涙もろともにむさぼるように食べた思い出があります。
このときはじめて、母親の慈愛を知らされました。不孝な自分を思いつづけてくれた母親の、本当の心のあたたかさを知らされたのです。
母親はそこにいなかったけど、母の私に対する慈悲の行為が私の心にしみとおったのです。向うからの慈悲のはたらきによってはじめて、親心を知らされました。知らされるということは真実の世界であって、頭の中で知るというような知識の世界ではありません。どんな科学的な方法で親の涙を分析しても、生きた親心はわかるはずがないのです。
仏さまの世界は、仏さまの方からはたらきかけてくださるみ教えによって知らされる、真実の世界といわれるものでしょう。

……<以下省略>

【No.687〈2002年 春の号〉】

一味法話(山本攝叡)

かざる心

山本攝叡
本願寺派輔教・布教使・行信教校講師

ある夜のことでした。
隣の部屋から法然聖人のお念仏が聞こえてきます。
しばらくして、教阿弥陀仏の咳き込む声を確かめるかのように、やがてお念仏も聞こえなくなりました。
翌朝の聖人は(*ここでは法然聖人)は、なにごともなかったように、普段通りのご様子です。不審に思いつつ、そのままおいとますることにしました。
教阿弥陀仏はこうして度々、聖人のおそばで教えを聞くようになっていたのです。
「京にいつまでもいるわけには参りません。知り合いを訪ねて、相模の国へと行くことになりました。年老いた身、もうお目にかかることはないでしょう。最後のお言葉をお聞きして、形見とさせていただきたく存じます」
教阿弥陀仏がいとま乞いに来たのは、それからほど経てのことでした。
「先月、二人きりの夜、私のお念仏を聞いておられましたね」
「はい、夢うつつのなかで」
「人はみなかざるものです。そしてかざる心の念仏が、往生のさまたげになるのです」
言葉は続きます。
「幼い子供の前、犬や猫の前でかざる人はいません。けれども、同行の前、妻や子の前でさえ、かざる心は起こって来ます。他人の存在ほど、往生のさまたげとなるものはありません。かと言って、我々のような者は、一人で暮らすわけにもまいりません。人と交わっては心を動かし、かざる心をどうしても捨てることが出来ない。そんな人は、だれも聞いていないところで、静かにお念仏してみるのです。かざる心なく申すお念仏、それが本願にかなったお念仏なのです。」
教えを聞く前の教阿弥陀仏は、天野の四郎という盗賊でした。人を殺め、数多くの罪を重ねてきたのです。
「たとえば、人のものを盗もうと思う人は、さりげなく振る舞っていても、盗み心が働いています。他人に見せていない心、それがかざらない心なのです。念仏の信心も同じことです。かざらない心で、いつもお念仏を申して下さい。そのお念仏は、まことのお念仏です。かならず仏さまは、ご覧になっています」
「それでは、人の前で念珠を繰り、声に出して念仏することはよくないのでしょうか」
「それも間違いです。仏さまは常に念ぜよとおっしゃってあります。ただ、人はさまざまです。もともとかざる心が強く、何でもないところ、何でもない場所でかざってしまう人もあり、そうでない人もあります。かざる心の少ない人が、人の前で素直に申す念仏、これはまことのお念仏でしょう。逆にかざる心の強い人も、教えをきいて、人前でもかざるこころなく念仏申すようになる。こうありたいものです。要は、すがた、かたちにとらわれることなく、往生まちがいないと思って申す念仏、それにつきるのです」
教阿弥陀仏は、東国へと旅だって、まもなく往生されました。
最後に、至誠心のこころ、真実心が起こるありさまを、法然聖人が説いて下さったのです。
みごとな、対機説法でした。

【No.689〈2002年 秋の号〉】

『観無量寿経』を読む

『観無量寿経』と「当麻曼荼羅」

天岸浄圓
本願寺派輔教・布教使・行信教校学監

『観無量寿経』と「当麻曼荼羅」

奈良県の当麻寺に、中将姫が蓮の糸で織りあげたとして伝えられている「当麻曼荼羅」が、浄土真宗のよりどころである「浄土三部経」の中の『仏説観無量寿経』の内容を絵画化したものであることは、あまり知られてないようです。
教典の内容を、絵画で表現することは「変相図」といって、遠くシルクロードの石窟寺院に、源があります。この曼荼羅も遠い道のりを経て、奈良に到達したものだったのです。
伝説によれば「当麻曼荼羅」は蓮の糸をもって、』一夜のうちに織りあげられたといわれています。しかしながら、実際の原本は奈良時代に織られた、縦・横約四メートルに及ぶ「綴織」と聞きますから、その巧みな技術力には、あらためて感服します。
ところが、この曼荼羅は完成後まもなくして、歴史のなかに埋もれてしまいます。その後、この曼荼羅が中国の善導大師(六一三~六八一)の『観無量寿経』の解釈にしたがって、絵画化されたものであることを見出したのは、法然聖人(一一三三~一二一二)の弟子の証空上人(一一七七~一二四七)だったのです。
証空上人によって、再評価されて以来、「当麻曼荼羅」は、単に阿弥陀仏の極楽浄土のありさまを、華麗に描き出したのみならず、善導大師の『観無量寿経』の理解をあらわしたものとして、法然聖人の法流を汲む人びとから、ひろく崇敬されてきました。

「浄土門」の「お経」

釈尊が生涯に説かれた『教典』は、八万四千といわれています。その中から『仏説無量寿経』(二巻)『仏説観無量寿経』(一巻)『仏説阿弥陀経』(一巻)の三部をえらんで、「浄土三部経」と名づけられたのは法然聖人でした。そしてこの「三部経」をよりどころとして「浄土宗」を独立されたのです。
ただ、この「浄土宗」という宗名は、現在の京都の知恩院を中心とした、浄土宗という教団(浄土宗鎭西派)を意味したものではなく、阿弥陀仏の本願の念仏によって、浄土に往生するという、念仏往生の教えに名づけられた名称なのです。
釈尊が遺された『教典』は、そのほとんどが、行者が自らの修行力によって、煩悩を断じて、さとりを開くという、修行者の行力を根拠とした仏道実践が説かれていました。そのなかに、さまざまな修行法があって、多くの宗旨に別れていると考えていたのです。
この考え方では、仏教のなかにさまざまな宗旨の別はあっても、一つの「ワク」の中のものと考えられていたのです。
ところが、法然聖人は『教典』のほとんどに、そういう実践構造が説かれてあっても、その中にたった三部だけれども、まったく異なった構造をもった仏道のあることを見抜かれたのでした。それが阿弥陀仏の本願力を仰いで、南无阿弥陀仏と念仏するならば、男も女も、老いも若きも、善人も悪人も・・・、 分け隔てなく、阿弥陀仏の浄土に往生することができるという、本願力の仏道でした。
そこで法然聖人は、このように阿弥陀仏の本願力を根拠として成立する仏道を「浄土門」と名づけ、修行者の行力による仏道を「聖道門」といわれたのです。

……<中略>……

「善導独明仏正意」のこころ

親鸞聖人の「正信偈」をおつとめすると、途中の「善導独明仏正意」(善導独り仏の正意を明せり)の箇所で、音程を上げ、節がかわるようになっています。聞いた話では、ここは善導大師が『観無量寿経』を解釈された功績を讃るところですから、一段と声を高めておつとめするとのだということでした。

……<中略>……

この視点こそ、後に法然聖人によって明らかにされた「浄土門」の『教典』を「聖道門」の立場で理解する誤りを見抜いたものだったのです。
そこで、善導大師は『観無量寿経』のおこころを、正しくあらわそうと、自ら畢生の筆を執られたものが『観経疏』四巻だったのです。

『観経玄義分・巻第一』
『観経序分義・巻第二』
『観経正宗分定善義・巻第三』
『観経正宗分散善義・巻第四』

このように、四巻からなっているので『四帖疏』ともよばれています。親鸞聖人はこの善導大師の功績をたたえて、「善導独り仏の正意を明かせり」と詠われたのです。
また、善導大師は自らの『観無量寿経』の理解に基づいて、そのこころを絵画化し、、当時の人びとの視覚的にうったえて、本願念仏の信仰を勧めていかれたのです。そのため、生涯に三百幅にも及ぶ「観無量寿経変相」を、描かせたとつたえられています。その一幅を原図としたのが、「当麻曼荼羅」だったのです。
次回から、善導大師の指南にしたがって、『観無量寿経』のこころを明かにしてゆこうと思います。

【No.691〈2003年 春の号〉より連載、全41回】

親鸞聖人の生涯 その(1)

誕生、出家・得度

梯實圓
本願寺派勧学・行信教校校長

日野有範の子として誕生

親鸞聖人は承安三年(一一七三)に誕生されている。幼名はわからない。
聖人がこの年にお生まれになったことは、ご自身の記録で確認できる。聖人は晩年、たくさんの書物を著したり書写をされているが、その最後に、「康元二年三月二日これを書写す。愚禿親鸞八十五歳」とか「正嘉二歳戊午六月二十八日これを書く。愚禿親鸞八十六歳」というように、書写の年月日と年齢を記されている。それを逆算すると、すべて誕生の年は承安三年であったことを指示しているからである。ただし、お生まれになった月日はわからない。江戸時代になって、誕生日は四月一日(新暦五月二十一日)といわれるようになったのである。
父は皇太后宮権大進・日野有範であった。母は清和源氏の流れをくむ女性であったといわれているが定かではない。

日野家は、藤原氏(北家)に属する中流の貴族で、有範の長兄の範綱は若狭守となり、従三位にまで昇っているし、次兄の宗業も、文章博士になり、位も従三位になっている。
しかし父の有範は、皇太后宮権大進という低い官職のままで、京都郊外の三室戸に隠遁し、三室戸の大進入道と呼ばれているから、何か深い事情があって、若くして宮廷を引退したのであろう。
有範の生没年はわからないが、三男の兼有律師が、父の中陰中に亡父を偲んで『仏説無量寿経』を書写していたことが、存覚上人が書写された『無量寿経』の識語に記されているから、相当後まで生存されていたのであろう。
なお聖人の誕生地は京都市伏見区の日野の里であったといわれている。そこは日野氏の伝領の地で、日野氏の氏寺である法界寺があり、そこには永承六年(一〇五一)に建立された阿弥陀堂が現存しており、定朝様式の丈六の阿弥陀仏像(国宝)が安置されていて、幼年時代の聖人の念持仏であったと伝えられている。
ただし聖人がこの地でお生まれになったという確証はない。

実悟の『日野家一流系図』によると、聖人は五人兄弟の長男であったという。聖人の直ぐ下には尋有(権少僧都・比叡山東塔の善法院の院主)がおり、聖人は最晩年、京都市三条富小路にあった尋有の里坊の善法坊に奇遇されるが、そこが聖人の終焉の地となったのである。その次に兼有(権律師・聖護院の僧)がおり、父の三室戸の庵室を相続している。その下に有意(阿闍梨・法眼)、行兼(権律師・聖護院の僧)がいたことになっている。
もっとも高田本山専修寺所蔵の『日野氏系図』によれば、聖人兄弟は行兼を除く四名になっている。それにしても、父の有範が隠遁し入道となったばかりか、子供達をすべて出家させているということは、有範の身にただならぬ事が起こっていたのではないかと推測せざるを得ない。

九歳で出家・得度

養和元年(一一八一・治承五年)の春、聖人は伯父の範綱に付き添われて、後に青蓮院門跡となる慈円慈鎮和尚(一一五五~一二二五)について得度式を受け、出家された。数え年九歳であった。
聖人がなぜ九歳で出家しなければならなかったのかという事情は一切わからない。その前年の治承四年に源三位頼政が後白河法皇の第二王子の以仁王を盟主に仰いで、平家追討の兵を挙げたことと関わりがあるのではないかといわれている。

……<中略>……

ともあれ、出家する九歳の聖人に付き添っていたのは父ではなく、伯父の日野範綱であった。父に付き添ってやることのできない事情があったからであろう。

『親鸞伝絵』には、範綱は聖人の養父となっているが、猶父であろう。猶父、猶子というのは、古くは伯父、甥の関係を表していたが、後には一般的に養育の有無や、財産相続に関係なく、擬制的に親子の関係を結んだもので、宮廷に仕えて位階を昇るときの便宜や、一族の結束を固める目的で行われることが多かったといわれている。
とくに摂関家の出身者である慈円に得度の師になってもらうためには、そのとき従四位・前若狭守であった伯父が父親代わりになり、「我が子」として得度式を受けさせる必要があったのであろう。

……<以下省略>

【No.693〈2003年 秋の号〉より連載、全37回】

巻頭言(利井聡子)

春のうた

利井聡子
行信教校理事長

ねがはくば花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
西行

夜の庭に満開の桜が白く浮かびあがっています。病床より老いた僧が、それを眺めています。西行です。そして詠むのです。「出来ることなら、桜の花の下で如月(陰暦二月)の望月(満月十五日)の頃に死にたいものよ」と。
ここで単に「きさらぎの望月の頃」ではなく「その」とわざわざ書き加えています。西行はもともと武士でしたが、無常を感じ剃髪出家して放浪隠者の生活を送った人なのです。
病の床についた西行が、釈迦入滅の二月十五日を意識しないはずはありません。だからこそ「その」という言葉の裏には「釈迦入滅と同じ日に」という思いを感じとる事が出来るのです。
そして西行は「願はくば…」の歌の通り一日遅れの二月十六日、大阪河内の弘川寺でなくなりました。
まるで絵に書いたような死にかたです。しかし、誰もがそんなにうまくいくはずはありません。
大事なのは、死にかたではなく、その先にあるお浄土へ参れるかどうか、の生き方なのだと思います。

【No.699〈2005年 春の号〉】

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