信一念義平成十年度専精舎論題(副題)

 [判者] 本講師 梯 實圓 勧学



「信文類」 (『註釈版聖典』二五〇頁)

 それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(中略)「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

(現代語訳)
 さて真実の信楽について考察すると、信楽に一念ということがあります。一念というのは、これは信楽が開け起こった時間の極まり、すなわち最初のときを顕わしています。またその内容をいえば、私どもの思いはからいを超えた広大無辺な仏徳を頂いていることを慶ぶ心であることを彰しています。(中略)
「乃至」というのは、多と少とをみな兼ねおさめるときに用いる言葉です。「一念」というのは、信心には「二心(ふたごころ)」がないから「一念」といわれているのです。これを天親菩薩は一心と名づけられたのです。すなわちこの一心が清らかな真実報土に往生するまことの因種なのです。

◆信一念の釈
 「信文類」は、今日では本末二巻に分かれている本を用いていますが、聖人のご自筆本である東本願寺本も、現存最古の写本と見られる高田本山専修寺本も、また西本願寺本も、すべて一巻になっています。しかし本末二巻にわけるときは、存覚上人の『六要鈔』の所釈本がそうであったように、信一念釈からが末巻になっています。今は西本願寺本によって解説していますから、本末に分け本に記されている「顕浄土真実信文類・三・本」という尾題も、「顕浄土真実信文類・三・末」という首題も、さらに「愚禿釈親鸞集」という撰号も掲載しません。
 さてここからは信一念の釈が展開されます。さきに三心即一の信楽を明かされた後、その信楽を別釈して、信楽が横超の菩提心であることを顕わされたから、ついで第十八願成就文によって信楽に一念の義があることを顕わされるわけです。そしてその信一念の義は、所聞の法に望めるならば、本願の名号を疑いなく聞き受けているほかに信楽の相はなく、如來回向の信楽が私の上に成就するのに時間の経過を要しないことを示しており、所得の利益に望めるならば、名号を聞信した信楽が初めて開発した時、同時に往生成仏の正因が決定して、正定聚不退転の位に住せしめられるという信心正因の義意が説示されているといわれるのです。
 「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり」という言葉は、遠く「行文類」の行一念釈を承けていました。そこには既に述べたように「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり」といって、行信にともに「一念」という言葉で顕わされる法義があるといわれていました。そしてその「行の一念といふは」といって、行一念釈を施されたのでした。今はその中の往相回向の信の一念について釈されるわけです。往相回向の行信についてという言葉は省略して「信楽に一念あり」といわれたのです。そして行の一念釈に遍数釈と行相釈がなされていたのと対応するように、信一念釈には時剋釈と信相釈とが施されていきます。
 ところで親鸞聖人が、第十八願成就文の「乃至一念」を信の一念を表された経文であるとみなされたことには問題があります。そもそも『大経』には第十八願成就文と、下輩の文と、付属の文に「乃至一念」という経説があります。法然聖人は、この三所の一念をいずれも「行の一念」と見られていました。法然門下の方々もそのように見ておられます。しかし、親鸞聖人は第十八願成就文は「信の一念」、付属は「行の一念」と見られた訳です。ただし下輩の文については、何の釈もなさっていません。おそらく三輩段は、第十九願成就文であって諸行往生を説く教説と見るのが聖人の基本的な立場でしたから、真実の行信についての一念の法義を表すのにはふさわしくないと思われたからでしょう。
 ところで法然聖人が第十八願成就文を「行の一念」と見なされたのは、本願の「乃至十念」を称名の十声と領解したうえで、その十声の称名を乃至(従多向少)して「一念」と説かれていると理解されたからです。すなわち「十声下至一声」という意味で「(十念)乃至一念」と説かれているというので、「行の一念」と見なされたわけです。もともと「乃至」とか「下至」という言葉は、同一の事象の上でのみ用いられる言葉だったからです。
 それに対して、親鸞聖人が「信一念」と見なされたのは、第十八願成就文に「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃ち一念に至るまで」といわれた言葉は、第十七願成就文を受けて、その機受を顕わした経文とみなされたからです。いいかえれば第十七願の誓いに応じて、諸仏が讃嘆される本願の名号のいわれを、衆生が疑いをまじえずに聞き受けている機受のありさまをあらわす経説であるとみられたからです。名号のいわれを疑いなく聞き受けて信心歓喜している一念を表すことを主としているとすれば、この「一念」は「信の一念」とするのが親しいと見られたわけです。それだけではなく異訳の『如来会』の第十八願成就文に「一念の浄信」と説かれていることに注目されていたことが、この後に魏訳の『無量寿経』に引文についで、『如来会』の成就文を引かれていることからもわかります。『如来会』では「一念」を「浄信の一念」と説かれているから、明らかに信の一念と見なければならないというのです。
 存覚上人は『浄土真要鈔』のなかで、第十八願成就文の「一念」を、法然聖人が行の一念と見なし、親鸞聖人が信の一念と見られたことについて、文の顕相(文面)からみる場合と、その文の隠意(文書の表面には現れていない隠れた意味)からみる場合とに分けて通釈されています。法然聖人は文の顕相からご覧になったから、「乃至十念」に対する「乃至一念」は当然「行の一念」であると見られたわけです。それに引き替え親鸞聖人は、経文の隠意(隠れた意味)から見れたというのです。すなわち、第十八願成就文の隠れた意味からいえば、諸仏が勧められる名号のいわれを聞いて、自分にはさとりを開く手がかりさえもない煩悩具足の機であることを知らされて自力のはからいを離れ、このような自分を必ず救うと仰せられる本願の教法を聞き受けて、本願他力にまかせきるという「機教の分限をおもひさだむる」信心が開発した時の有様を「信心歓喜乃至一念」と説かれているのですから、この「一念」は「信の一念」であると見られたというのです。

◆時剋釈と信相釈
 さて親鸞聖人は「信の一念」について、「時剋釈」と「信相釈」という二種の解釈を施されています。「時剋釈」というのは、「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」といわれた文章のことです。信心が開け発った時剋(時間)の「極促」を表しているのが「一念」という言葉であるというのですから、「時剋釈」と言い習わしています。これが経文の当分の意味です。ですから『一念多念文意』(『註釈版聖典』六七八頁)の信一念釈には「一念といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり」という「時剋釈」だけがあげられていて、「信相釈」が施されていないからです。ちなみに『一念多念文意』には「行一念」についても「遍数釈」だけを挙げて「行相釈」は出されていません。
 「信相釈」というのは、「〈一念〉といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく」と言われたもので、この場合は「一念」とは、「二心のない」ことを表しています。「二心」とは、「うらおもい」ともいわれるように、心が肯定と否定の間を揺れ動いている状態のことで、一つに決定していない状態ですから、疑い心をあらわしています。それゆえ「二心がない」ということは疑いのないことであり、決定心のことであり、「一心」と同義語になります。それは疑いなく本願を聞き受けている信相を表していますから一念の「信相釈」というのです。これは先ほども言ったように、「行一念」の「行相釈」に行の一念とは「二行(余行)を雑えない」ことをいうと釈されたものと対応しています。すなわち行の一念に行相釈を施し、信の一念に信相釈を施すことによって、如來より回向された真実の行信は、一心(疑いなき心)をもって(念仏)一行を修するという一行一心という形態をもっており、それが法然聖人が表そうとされていた専修念仏の結論(宗義)であるという、浄土宗の真実の宗義(浄土真宗)が明らかになっていくのでした。ですから先哲は、行相釈と信相釈を「宗釈」とも「義釈」とも呼ばれたのでした。
ところで「信の一念」について、このような時剋釈と信相釈が可能になったのには、梵語で極めて短い時間を意味するクシャナ(刹那)と、心念を意味するチッタとを、中国語では同じ「念」という言葉で訳していた訳語の問題もあったのではないかという意見もあります。確かに傾聴すべき意見ですが、しかし親鸞聖人は訳語の問題というよりも、純粋に信心の構造について時剋釈と信相釈を施されたと見るべきではないでしょうか。
 さて時剋の一念とは、一念を時間的な意味で解釈することです。しかし、仏教では、時間について、「時無別体、依法而立(時に別体なし、法によって立つ)」といい慣わしているように、時間という実体があるとは認めません。縁起している諸法の生滅・変化の上に時間という観念を仮りに立てているだけであるというのが仏教の基本的な考え方でした。そのうえで信の一念という「時剋」をどのように理解していくかが問題になります。これについて、「時剋の極促」の「促」という文字を、親鸞聖人は「延促対」の促と見られる場合と、「奢促対」の促と見られる場合とがありまして、それによって極促の意味が変わります。そこで古来真宗学者の中に二説が主張されてきました。

◆初めて信心が開発した時としての一念
 「延促対」というのは、『浄土文類聚鈔』に、第十八願成就文と『大経』付属の文を引用された後に、
また〈乃至一念〉といふは、これさらに観想・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり。(『註釈版聖典』四八〇頁)
と言われた文に依って解釈する説です。「『大経』に説かれた乃至一念というのは、如來の総相や別相を観察したり、仏の功徳を憶念したり、称名の数量に関する一念でもなく、往生の業因である心行、すなわち南無阿弥陀仏を獲得する時間の延(に対する)促の状態のことを乃至一念と説かれたのです」といいのです。ここで往生の「心行を獲得する」というのは、「行文類」(一八六頁)に、「十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつる」といわれた所帰の行信と同じ事で、「南無(信)阿弥陀仏(行)」を意味していました。南無阿弥陀仏が心にあるすがたを信といい、口に現れて相続していくすがたを行というのですから、南無阿弥陀仏を獲ていることを行信を獲るとも心行を獲るともいうのです。『高僧和讃』(『註釈版聖典』五八四頁)には、如來の回向によって「心行ともにえしむなれ」ともいい、「悲願の信行えしむれば、生死すなわち涅槃なり」ともいわれています。行信といっても、信行といっても、心行といっても根源的には南無阿弥陀仏の外にないからです。
 また「時節の延促」といっても、今は一念を釈するのですから、延の意味ではなくて促の意味を表しています。しかし延促という言葉で表すことによって、一つには、この促は延に対する促であるという意味と、二つには、本願の心行は一念だけを強調して多念を否定する一念の義でもなく、多念を強調して一念の価値を軽んずる多念義でもない、根源的には延促を包んでいる南無阿弥陀仏に帰する心行であることを表すためでした。
 いずれにしても延促についての一念ですから、一念は延(のびる)に対する促、すなわち「つづまる」「ちぢまる」という意味になり、生涯相続する信心がつづまった極限のことを「極促」といわれたものとしなければなりません。したがって一念とは、信心が開け発った最初の時、すなわち獲信の初際のことで、それを「信楽開発の時剋の極促」といわれたと解釈するわけです。この場合は「一念」の「一」は、「初一」「初め」の意であり、「念」は「時」で、つまり「初めの時」ということになります。ですから一念とは信心を獲るのに要した時間のことではありませんから、信心を得るのにどれほどの時間を要したかという時間の長短・遅速とは関係がない言葉とみるわけです。

◆極めて速い時間としての一念
 次に「奢促対」とは、「行文類」(『註釈版聖典』一九九頁)や、『愚禿鈔』上(『同右』五一〇頁)の一乗海釈の二機対中に「奢促対」といわれているものや、『尊号真像銘文』末(『註釈版聖典』六六八頁)に、「奢はおそきこころなるものあり、促は疾きこころなるものあり」といわれているように、奢(おそし)に対する促ですから、「疾き」すなわち速いという意味を表しています。「西本願寺本」には、「時剋の極促」の「促」の字に「とし」と左訓されており、速いという意味で解釈されていたことがわかります。また「行文類」の六字釈に、「即得」の「即」を釈して「〈即〉の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」といわれていますが、「高田本山専修寺本」には、その「極促」に「きはめて ときなり」という左訓が施されています。これは極めて速いという意味を表す左訓であったといわねばなりません。ところでこの「行文類」の六字釈の文意は、第十八願成就文の「即得往生」の「即」を釈されたものでした。この即は単なる接続詞ではなくて「即時」という意味で、信心が開発した時と、往生が決定して正定聚に入れしめられる時とが同時であるという意味を表しているといわれたものです。そのことは『一念多念文意』の「即得往生」の釈でも明らかです。このように、二つの事柄が密接に関連しながら同時に成立していくことを「即」という言葉で表す場合、「同時即」といいます。そこには両者の間に時間の経過を見ないからです。ともあれこうした左訓から見て聖人は、「時剋の極促」というのは極めて速い時間で、それも時間の経過をみないで事柄が実現することを時間的に表すのに「時剋の極促」という言葉を用いられていたことが解ります。
 こうして促を奢促対で解釈する人は、獲信に要する時間が極めて速いことを表していると見ていきます。極めて速いというのは、時間の極限を表す言葉であって、本願を聞き受けることと、真実信心が成就することと、往生が決定することとが、同時に成立することを時間的な表現で「時剋の極促」といわれたと見るのが、奢促対で極促を解釈する人の説です。
 しかし極めて速いというのは、一分一秒であれ、何万分の一秒であれ、時間の経過があるならば極促ではありません。信心が成立し、往生が決定するのに時間の経過を要しないような時間のことを極促といわれたと見るのです。そのような極促の一念は、分別知をもって客観的に、対象的に促えることのできませんから、「唯仏与仏の知見」であって凡夫の量り知ることのできない時間であるといわれています。しかし、それは「極促の時間」は、ただ今聞こえている現前の如來招喚の勅命を聞いている「今」以外にありませんから、それを対象的に促えることは決してできないといっているわけです。その「時」を客観的に促えることはできませんが、そこに成立している信心には疑いなく本願を信じている信相はあります。本願招喚の勅命を聞いて起こっている信心に、本願を疑いなく聞き受けて、往生一定と信知する信相が厳然としてあることはいうまでもありません。ただその信心は、如來回向の心ですから、機の造作を借ることは全くなく、時間の経過を必要とせずに、つねに「勅命」を信受する「ただ今」の事実として機の上に実現していますから「極促の一念」といわれているというのです。

◆時剋の極促の意味
 このように「時剋の極促」について、延促対で領解する説と、奢促対で領解する説とがありますが、それは必ずしも矛盾するものではないと思います。すでに聖人が「時節の延促について乃至一念という」といわれているのですから、延促対の意味があるのは当然ですし、西本願寺本や高田本の左訓によって、極促の促を「とし」とか「きわめて、ときなり」と見る一面があったことが窺えますから、両方の意味が含められていたというべきでしょう。信の一念とは、生涯相続する信心が初めて機の上に開け発った最初の時のことですが、その最初の時は、如來回向の名号、すなわち招喚の勅命が私に届いて、全く私の造作を借らずして真実信心となって実現しているわけです。機の造作を借らずに完全な信心が成就するのですから、全く時間の経過を必要とせず、極めて速疾に実現することを「時剋の極促」といわれたのであり、その時に完全な信心が成就していることを知らせるために、その信心が「広大難思の慶心」であるといわれたわけです。
 幾たびも触れたように『一念多念文意』には、「一念といふは、信心をうるときのきはまりをあらわすことばなり」といわれています。その「時の極まり」という言葉も、獲信の初際を表しているとともに、信心を獲るのに時間の経過を要しない速疾成就の信であることを表されていたというべきでしょう。それが「時の極まり」という言葉が表す二重の意味であったと思います。要するに過去、現在、当来という三世で表されるような時間を超えて三世を包んでいる如來成就の久遠の法が、時間的な存在(あるいは時間を生み出していく存在)である私どもの上に大悲をもって回向され、信心として実現する「時」の構造を明かそうとして、親鸞聖人は「時剋の極促」とか、「時の極まり」という究極の表現を取られたのであろうと思います。
 極促の一念は、決して空虚な時間ではなくて真実信心そのものであり、広大無辺の仏徳を領受しているといわれるような内実を持っており、信心の行者に往生成仏という新しい時間系列を与えていくわけです。ですから「信楽の一念」は、「広大難思の慶心を彰はす」と言われたわけです。親鸞聖人は、ここで「あらわす」という言葉を使い分けられています。信の一念が「時剋の極促を顕わす」という場合には文字の当分に示されている意味を顕わしますから「顕」という字を用い、「広大難思の慶心をあらわす」ということは、信の一念という文字の当分には見えませんが、隠れた意味として具わっていますから、そのように言えるというので「彰」という文字を使われたわけです。そこで「彰」には特に「ウチニアラハス」という左訓を施されたわけです。言葉の内に秘められている意味をあらわすという意味なのでしょう。
 また「信の一念」という時は、時間の中にあって時間を超える意味を持っていますから、一念の信はそのまま「一念にあらず、多念にあらず」ともいわれることは既に述べたところです。そういう意味で、信心が開け発った最初の一念は、初後一貫しています。信心とは常に現前の仏勅に信順している他はなく、決して過去形や未来形を取らないわけです。いいかえれば、どの今を取ってみても、如来の招喚の勅命に呼び覚まされている信心は、いつも「はつごと」なのです。『御一代聞書』末(『註釈版聖典』一二七三頁)に、蓮如上人の弟子であった赤尾の道宗の、「道宗は、ただ一つ御詞をいつも聴聞申すが初めたるやうにありがたきよし申され候ふ」という述懐を挙げられていますが、まさに信心とは、如來の仰せをつねに「初めたるやうにありがた」く聞く耳が開かれたことでした。
 その意味で先哲は、信心は「初後不二」であるといわれています。したがって、行には一念と多念を分けることができますが、信心はつねに一念であって一念・多念の別はないというべきです。こうして本願を信ずるただ今の一念は、私どもに如来・浄土を中心とした全く新しい意味を持った人生を開いていきますが、それを親鸞聖人は「現生正定聚」として展開されていくのでした。

以 上
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